せっかくハイキングシューズを新調したので、最近は祖父の代から登ってきた三勲神社正面口(地図では操山登山口)から登っている。そこで今回は塚衆が登ってきた最も古いルートを紹介する。思いつく度に今後も文章を書き加えると思う。
このルートは萩の塚までの距離が長く難所もあるが、なんといっても眼下に岡山市街が広がり、三勲神社跡やかなめもちのトンネル、オノコロ坂など変化に富みかつ味わい深いコースである。
登り口は東山の電停から最も近い三勲神社の参道から登って行く。
三勲神社正面口階段
階段左脇にある文学のこみち碑 碑は平成のものではないだろうか。
階段正面の案内板 ここで道は左右に分かれるがどちらを選んでも先で合流する。
看板に向かって左は地道で勾配がゆるいが右の道よりも合流場所まで1,5倍距離が長い。戦前父が学生の頃に奉仕でこの道を作ったと言ってたように記憶している。
看板に向かって左の道
右の道は幅が広く下がセメント道で急勾配である。神社によくある男坂でありおそらくこちらが三勲神社への表参道だろう。今は撤去されているが高圧鉄塔がこの先にあったのでその工事のためのセメントかと思ったが、やはり道が雨で削られない為にセメントを敷いたようだ。萩の塚衆はこちらの急勾配を登っていた。
看板に向かって右側の道
階段正面案内板に向かって左側の道。所謂女坂から登って行くことにする。この道は何度か折れ曲がっていてやがて10分少々で男坂からの合流カ所に出る。
下の写真が男坂からの合流ケ所
合流カ所の少し上に小さな階段がある。ここは半世紀以上前に家本先生と最後に会った場所で、先生はここに座って一人で茶を飲んでおられた。
昔は階段幅が上下同じでしっかりした造りだった
兄の綴った「萩の塚物語」に家本先生のパンケーキの話が出てくるが、この時先生から勧められたのは唾でこねたようなメリケン粉のかたまり状の代物で、さすがに食べれなかった記憶がある。私は小学校6年生で、この日母が一緒に登った記憶があり、母も父の転勤に伴う四国高松へ転居前に1度登った記憶があると言うのでこの日の話に違いない。
家本先生が何故ここで一人茶を飲んでおられたのか、この時の私は先生がご高齢で萩の塚まで登れないからだろうと思ったのだが、その後父の転勤に伴い転校したので、これが家本先生とお会いした最後となった。
この階段のすぐ上がソロプチミストの森と言う萩の塚とは対局にあるように洒落た名前の場所である。
今は植樹や休憩場所など作られているが、ソロプチミストの森の出来る以前に、父はこの辺りで首つり自殺があったと言っていたように記憶している。あまり縁起の良くない話だがこういったことも記録にとどめたいと思っている。
ソロプチミストの森
ここから三勲神社跡まで5分ぐらいであろうか、その途中つつじの丘という看板があり
自生のツツジが沢山生えている場所がある。以前はとても綺麗で眺めがよかった記憶があるが、今回行ってみると驚くほど荒れてしまっていた。おそらく中心になっていた人達の高齢化や死去が原因なのかと思う。萩の塚がこうならない為の教訓のようだ。
三勲神社跡は視界が開けていて明るく岡山市街が眼下に一望できる場所である。萩の塚衆は必ずここで休憩をとり、夜景と星空の下で体操をしたり街に向かい大声をだしたりしてから萩の塚へ向かった。
登山口から三勲神社跡まで右の旧表参道コースで15分。左の地道コースで20分程かかる。ここから萩の塚までは15分。
登山口から萩の塚まで中年の方が休憩無しで30分。萩の塚衆は休憩を入れて1時間程かかっていたように記憶している。
上記によると三勲神社は明治8年にここに造られたようで、私(管理人)はこの神社から名づけたであろう三勲小学校出身であり、縁のある場所である。
三勲神社を過ぎてからかなめもちのトンネルを抜け、オノコロ坂にさしかかるあたりまで道は平坦でとても歩きやすく快適である。
縁起が悪い話だが三勲神社跡と国富方面、萩の塚方面とのT字路。ちょうどこのあたりで数十年前に自殺者の遺体があったらしく、父はここを通るときは供養の祈りを心で唱えながら通ると言っていた。
T字を左に行くと安住院の多宝塔があり、この塔は京都東山の塔を模して後楽園の借景の為に造られたものである。
萩の塚はT字を右に行き、ここからかなめもちのトンネルまでの道は平坦ながら両側にツツジなどの低い枝が迫り、温かい時期は蜘蛛の巣が顔にへばりつく要注意場所である。誰かが先に登って蜘蛛の巣の洗礼を受けた後通行する方がありがたい。
私はこの時期ここを通るときには、蜘蛛の巣対策で細長い枝を拾って顔の前を上下させながら歩いている。
ついでながら最近操山で出会う人達の多くがこの時期は半袖半ズボン姿であり、お節介ではあるが蚊の洗礼も気になる。私は夏でも必ず長袖長ズボン姿で萩の塚に向かう。
道の両脇はかつて松茸が取れるため進入禁止の縄が張られていた
半世紀以上前このあたりは赤松林で、松茸が生える場所を落札していたようである。道の両脇は進入禁止の縄が張られていた所でもある、今は植生が変わって赤松は全く見られなくなってしまったし、もちろん松茸は出ない。このように短期間での急激な植生の変化の原因は松食い虫による松枯れによるものではないかと思う
ここを過ぎるとかなめもちのトンネルになる。操山は何度も山火事になっていて、戦後もこの辺りは焼けたのだろう。かなめもちのトンネルや山桃の木などはおそらく山火事の後に計画して植林された木が育ったのではないか想像する。
確かに萩の塚衆の杖は、山火事で焼けた跡の松の木の根を取って造ったと聞いている。最近よく見かけるスキーのストックのようなものや、介護コーナーにあるような金属の物に比べるとなかなか味わいのある杖だ。
(松の木の根から作った杖)
操山は江戸時代池田藩の御用林であったため要所要所の石に「御林」と書かれた石がある。かなめもちのトンネルにもそんな石が2カ所置かれている。
江戸時代岡山藩の御用林を現す石
さてここからこのコース最大の難所であるオノコロ坂の急登である。
かなめもちのトンネルはオノコロ坂を挟んで上下に長く続いている。
オノコロ坂
オノコロ坂の命名者は家本為一先生である。おそらく記紀に出てくる国産みの島であるオノコロ島を操山に見立て、それと自分が転げ落ちることをかけて名付けられたのではないかと類推する。確かに昔は操山直下まで海だったのだろう。今も「湊」とか「海吉」などの地名があり操山は島だった可能性がある。
このオノコロ坂の下から3分の1ぐらい登った道の中央に、嘗て塚衆全員がもたれかかって休んだ背もたれ石がある。祖父も父もお世話になった石なので、私もここを通るときは必ず撫でて通っている。
塚衆の休憩石。背もたれ石
この背もたれ石のすぐ横に「落ちない石」と言うパワースポットようなものが近年出来ている。確かに見ようによっては落ちそうで落ちない石であり、そのため受験生の願掛け対象になっているようだ。
「おの(自)ころ(転)坂」の名前など知る由も無いだろうが、おのころ坂なのに落ちない石と解釈すれば合格祈願の石になりそうだ。
またちょうどこの辺りは、父が数十年前に丑の刻参りに出会った場所でもある。
父は真っ暗闇の中をカンテラ一つ下げて歩いていて、白装束に白はちまき姿を見かけた。
白装束もまさかこの時間に人が現れるなど予想もしていなかっただろう。驚いて隠れ去ったようだがひょっとして女性だったのかもしれない。真夜中に白装束姿など登山者ではあり得ない。藁人形に釘を打ち付けていたとすると、人間のすることはおぞましくもあり哀しくもある。
このオノコロ坂を登りきった所が今は公園広場のようになっており、展望の良い休憩所や所々にベンチが設置されている。
オノコロ坂を挟んで上に位置するかなめもちのトンネル
父曰く、このあたりに狸がいたらしく、父はせっせと夕食の食べ残しを持っては
萩の塚の帰りに置いていた。姿は見せないがエサはいつも無くなっていたらしい。
今は物騒なことに以前全くいなかった猪が操山にはいりこんでいる。今のところ出くわしていないが、道の両脇の柔らかい腐葉土のあちこちに明らかに大きな動物が転げ回った跡や、木の根を掘ったあとを必ず見かける。新鮮な痕なのでイノシシと遭遇しないよういつもリュックに鈴を下げて歩いている。
さて、このかなめもちのトンネルのすぐ上が操山頂上(169M)である。
戦時中はここに軍関係の見張り所のようなものが有ったと聞いた。私の知っているのは、木が腐って倒れかかった休憩所が長い間放置された姿で、蜂が巣を作っていて近づきにくかったことである。
またこの頂上は古墳である。しかし埋めていて姿は見えない。
休憩所跡
ここから萩の塚までは220メートル。緩やかな下りである。
真っ暗闇の中を歩いてきてちょうど上の写真の辺りで、萩の塚で焚く囲炉裏の灯りが見える。その瞬間の言いようのない安堵感と言ったらたまらないものである。
萩の塚すぐ手前のT字分岐。萩の塚に向かって右は萩の塚南坂の急坂である。下りると
護国神社や旗振り台方面に行ける。
さて、やっと萩の塚に到着した。
抹茶で一服。
至福の時である。