だいたい週2回は萩の塚に行く。そんな間隔であっても10年続けようと思えば、仕事や家庭や健康など様々な要素が揃わないと続けることは出来ない。父は94歳まで続けた。
家本為一先生は
「今日は病気じゃ、昨日は薬じゃと、半休半労の能率なき生活をするよりか、早朝枕を蹴って起き、橋下乞食の鶏の鳴く頃、東山に登り萩の塚に至り、一杯の茶を飲み、人の目を覚す時には悠々下山して、各々その職業に出勤するのは、別に恥ずべき事ではない。」
とおっしゃっている通り、萩の塚衆は夏冬問わず毎朝5時には萩の塚に着いて茶を飲むのを日課としていた。私はそんなに早く起きないで、萩の塚衆が塚に到着した時刻の5時に起きて準備をし始める。
阪神淡路大震災が1995年平成7年1月17日火曜日の午前5時46分に発生した。その時刻萩の塚衆は塚の中で茶を飲んでいて地震に遭遇した。私は地震発生からさほど経たない時期にボランティアで神戸に入り、倒壊家屋などの状況を見たが、岡山市は震度4であった。萩の塚古墳は大きな岩を積み上げた構造だから落ちてきたら全員圧死である。しかし萩の塚古墳はビクともせず、地震のあった日も塚衆はいつも通りに塚の中で抹茶を飲み下山したらしい。
萩の塚古墳は造られてから1500年が経つ。その間にはこの地震を含めて様々な物語を経験したに違いない。
すぐに頭に浮かぶのが戦国時代。備中の覇者三村元親と備前からの新興勢力宇喜多直家とが、まさにこの場所で戦った明禅寺城の戦いである。
宇喜多はこの明禅寺城の戦いに勝利して備前備中の覇者となり、三村はこの戦いに敗れて滅亡へと進むことになった。
萩の塚から明禅寺城は峰続きのすぐ直下といった位置関係である。萩の塚からは城の様子が手に取るように見えるので明禅寺城を落とすには欠かせない場所である。おそらく城の一部として守備を固めていたであろうし、攻め手も人数を割いて攻めたであろう。当時は甲冑を着た武者がガシャガシャと音をたてて走りながら萩の塚を行き交い、場合によっては塚の内外でも壮絶な斬り合いが行われたかもしれない。
そんなことを思いながら私は塚の前で抹茶を飲んでいる。
先日抹茶を終えていざ掃除をしようとしたら所定の位置にある筈の箒が見当たらない。
その場所以外にホウキは置かないので持ち去られたことは確実である。
ただ何の為に持ち去ったのかが判らない。清掃ボランティアのような登山者が、あまりに汚い箒なのでゴミとして持ち去った。、、、か。
公共的に管理する立場の方がやってきて、ホウキを迷惑行為にあたる道具として持ち去った。、、、か。
不明である。
そこで早速ホームセンターに行って新しいホウキを購入した。ホウキには「萩の塚」「そうじ」「持って行かないで」と書いた。
さてこの文字がどれだけ効力があるものなのか、今後を観察してみたい。