萩の塚通信

岡山市の操山にある古墳の一つ「萩の塚」に関した様々を綴っております

「萩の塚」にて  父との思い出

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この写真は90歳の父が萩の塚のすぐ手前で抹茶を点てている様子です。 

昭和14年家本為一先生が発起人となり以来80年。岡山市長はじめ岡山の名士が多く集い、遠くは棟方志功や河合寛二郎など人間国宝も来岡談笑した「萩の塚」での集まり。

しかし数年前に塚での野点文化財保護や火気厳禁の名目で禁じられた。よって塚の手前にて魔法瓶で抹茶を点てている様なのである。

 

 

 

この父の写真を撮った前年に岡山県の施設、沢田にある岡山市(公財)岡山市公園協会)}が運営する里山センターから連絡があり、「萩の塚近くにあったゴザを預かっているから取りに来るように」との連絡を受けて、父と共に受け取りに行ったことがあった。

その時に会った里山センターの責任者から、萩の塚を通りがかった登山者が、不審な物、もしくはゴミのような物として、わざわざ里山センターにまで届けにきたとの説明をうけた。当時ゴザは塚内の角に丸めて整頓し置かれていたので、わざわざ里山センターに届けたと言うより、故意に撤去して届けたということであろう。

里山センターに行く時に、父はセンターの人に萩の塚のことを少しでも理解してもらおうと、私(管理人)の兄が作った「萩の塚物語」を持って行った。父は大正生まれの日本人の実直さで、里山センターの責任者らしき人に少しでもわかってもらおうと話をしていた。責任者らしき人も老人の話に一応相づちをうってはくれていたものの、はたから見ていてジェスチャーポーズにすぎない相づちであることもよく見てとれた。

 

その後私が萩の塚の事を少しでも知ってもらおうと、萩の塚に立つ岡山森林管理所と岡山市教育委員会連盟の立派な看板の脇に、小さく目障りにならない形で自分なりに手間をかけて、萩の塚の名の由来や家本先生のことなどについての説明文を立てた。しかし数日後何者かによって撤去された心棒部分が草むらで見つかり、看板部分は結局見つからないはめになった。

 

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これらの事は私にはっきりとした時の移ろいを実感させられ、その後父の入院や施設入所で私自身の中でも次第に萩の塚は過去の事となりつつあった。

そんな忘れかけようとした萩の塚への思いは、昨年父が亡くなったことがきっかけで再び大きな比重を占めるようになってきたのである。

 

 

60年前萩の塚に行っていた祖父が亡くなった時の父の思いが、この萩の塚物語に収録されている。

 

昭和36年夏、父が死去してから、私も父に負けないようにと、毎日のように「萩の塚」に登るようになった。父が歩いたのと同じ径、同じ土を踏みしめて、父の見たであろう同じ星を眺めながら・・・。そして父の異名である「旧鉄」をもじって、「九哲」という雅号を使用するようになったのであるが、思えば、何と奇妙な、何と幸せなめぐり合わせであろうか *



上の一文は今の私と同じ父の死にあたっての行動が綴られている。

 

 

 

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そして今の私の萩の塚に対する思いは、

「祖父と父とが登った萩の塚を、私も体力の許す限り受け継いで行こう」

そう思っている。

 

 

 

 

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