萩の塚通信

岡山市の操山にある古墳の一つ「萩の塚」に関した様々を綴っております

祖父が登り、今も父が登り続ける懐かしい故郷の山

 

           上記写真の少年は私(管理人)です
 

私が物心のついた頃から父は操山に登っていた。小学校の頃父について何度か萩の塚に行ったことがある。朝4時過ぎ、真っ暗な中を怖くてビクビクしながら父の後を離れないようにしてついて行った。父の下げるカンテラの灯りだけが頼りだった。特に登り口は墓のそばを通ることになるので怖かった記憶がある。父は重そうなリュックを背負いカンテラを下げてラジオの短波放送を聞いていたがそれはいつも株式情報だった。歩くたびにカンテラの灯りは光と影の境界線を作りながら移動していたが、圧倒的な暗闇の中で株式情報の声におかしな違和感があった。 父はこの暗闇の中で死体に二度出会っていると聞いた。いずれも自殺者で一度は首をつったままの姿で木にぶら下がっていたらしい。普通そういうものに出くわすと真っ暗な中での山歩きはやめると思うのだが、それでも父は登り続けた。その頃の私の記憶は冬の寒い日に登った時の霜柱を踏むザクザクと言う小気味良い感触と、高山さんの連れていた白い犬、それに凍てつくような寒さの中塚の中で燃える炎の熱さと、真っ黒な南部鉄瓶から上る湯気。そして一番奥の座に煙に燻されながらそれでも平気で座っていた小さな家本先生である。

  その後父は転勤の為10年ほど岡山を離れていたが、定年退職で岡山に帰ってからは以前にも増して熱心に萩の塚へと登り始めた。私は22歳を過ぎていたが岡山に帰るたびに萩の塚へと行った。その頃には家本先生、児島さん、高山さん北村さんなど常連の方たちは既にお亡くなりになっていたが、それでも草創期のメンバーで所謂「萩の塚衆」と言われた人たちは存命で、山崎さん、小野さん、塩田さん、福島さん、竹波さん、藤原さんなどの姿があった。皆高齢の中で夏は塚の上に筵を敷き、冬は塚の中で囲炉裏の火にいぶされながら談笑していた。操山最大の難所オノコロ坂(家本先生の命名した坂で自ずと転ぶ意か?或いは古事記のオノコロ島から名づけたものか)の五合目あたりにある岩では、全員が決まりごとのように岩にもたれて休憩をとった。きっと私の祖父もこの岩で休んだかと思うと、今でもこの岩の横を素通りできない。

 

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  その後私は結婚し仕事に家庭にと様々な経験の中で翻弄されてきたが、父は変わることなく84歳になる今でも萩の塚に登り続けている。今はもう草創期の人たちは全員が亡くなった中で父一人登る姿がある。いつまでも健康で登り続けてほしい。ただそう願う気持ちで一杯である。

  今でもたまに父について萩の塚に登るとその様変わりに驚かされる。火の用心と書いた看板は文化財保護の姿勢を表したものであろう。今では塚の中での焚き火は禁止されている。しかし私の心の中にある萩の塚は古墳でも文化財でも無い。筵を敷き石の囲炉裏で湯を沸かし茶を飲む萩の塚の面々が人生を談笑する場所である。そして冬の真っ暗な中炎に照らされた萩の塚衆の顔と、夏の清々しい空気に触れながら、塚の上で一杯の茶を飲む貴重な思い出の場所である。

  ここは祖父が登り、そして父が今も登り続ける、懐かしい・・・懐かしい故郷の山であり、父と共にある故郷の記憶そのものである。

                              (2005年10月26日)

 

この記事は2010年2月27日にアップされたものです

 

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