萩の塚通信

岡山市の操山にある古墳の一つ「萩の塚」に関した様々を綴っております

萩の塚と周辺に咲く花

花に関してはとんと疎く今まで過ごしてきたので、この記事については今後も継続して加筆編集する予定である。

 

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           吉祥草  萩の塚にて   2021年10月22日 

 

  

 

萩の塚正面に向かって左側、葉っぱに隠れるようにして見たこともない花が咲いている。気になって捜してみると葉の下にところどころ咲いていた。花や木にとんと疎いので、とりあえず見て見ぬふりをしていたが、やはり気になる。

写真に撮ってネットで10月に咲く花を検索してみたがそれらしき花は見つからなかった。が、そう言えば昔買った植物図鑑が有ったのを思い出しやっと花の正体がわかった。

名前は吉祥草(キチジョウソウ)と言い、花が咲くと幸運が舞い込む。めったに花は咲かず吉事があると咲くという言い伝えがあるらしい。しかし実際には毎年花が咲くようだ。花言葉も「吉事」「喜び」「祝福」と縁起が良い。塚衆の誰かが植えたのか、もともと自生していたのかわからないが、萩の塚に咲いていてくれていることが嬉しい花である。大切に管理したいと思っている。

 

数年前から操山にもイノシシが住み着くようになり、鼻で道ばたを掘り返すので、吉祥草も一部荒らされてしまった。まさかイノシシ対策を操山でするなど思ってもいなかったが、取りあえずイノシシが近づかない忌避剤を考えた。イノシシの嫌いな匂いなどネットでググってみたが、やはり匂いに慣れてしまうようだ。とりあえずホームセンターで効果の程は不明だが猫の忌避剤を買ってきた。昨日も忌避剤を蒔いてきたが、果たしてどの程度効力があるのか。一応の抵抗を試みている最中だ。

 

                      2022年4月26日

上記はイノシシが道ばたを鼻で掘り返しながら歩いている跡。

 

 

 

            山萩 2021年9月26日三勲神社跡

 

秋を代表する花。萩の塚の名前の由来になった花だが、残念なことに萩の塚周辺には見られなくなってしまった。三勲神社周囲とソロプチミストの丘にはまだ山萩が見られるので、萩の塚に移植して株分けできるような萩を捜していたが、ソロプチミストの丘に本当に大きな萩が有るのを見つけた。

 



 

大きな萩から別れた株によって茂みの一翼を形成している。

株分けできそうな株を見つけることが出来た。(下の写真)

 

 

株分けは萩の本体が損なわれるわけではなく、萩を増やす方法としては本来株分けによるもののようである。同じ山の萩をA地点からB地点に株分けして移植する事に対してうるさく批判する方もあるだろう。しかしかつては萩の塚周囲にも萩が沢山咲いており、たかが数十年で植生が変わったことも人間の関与と言えなくもない。

そこで根が冬眠している2022年2月20日株分けを行って萩の塚に移植をした。

 

   萩の塚に移植した萩 2022年5月12日

 

無事に育ってくれることを祈っている。

 

 

 春

 

 

   シャガ 萩の塚にて  2022年4月14日

 

                      2022年4月14日
 

塚正面に向かって右側にポツポツときれいな花が咲いている。市中でも時に見かける花だが名前が分からない。兄がシャガと言う花だと教えてくれた。きれいな花だ。

また、シャガの間にゼンマイが顔を出している。これはあまり食べれるような顔をしていない。

 

                     2022年4月10日

 

塚のすぐ前の斜面には桜のひょろ長い大木が2本ある。塚正面の左右と言う絶好の場所である。おそらく人の手によって植えられたのではないかと想像する。たぶん山桜なのだろう。ソメイヨシノに比べると派手さは無いがなにせ背がひょろ高い。20メートルはありそうだ。山中塚の前庭での花びら掃除は粋である。

だが花のつきが今一つ悪いように思う。ひょっとして木の上の方まで蔓が巻いていて木を締め付けているのが原因かも知れないと思い、花が咲き終わった後に蔓の根を全部切ってみた。来年の咲きは違うだろうか。

 

      ひょろ長い山桜の下部分     2022年5月22日

 

     三勲神社跡地の山桜    2022年4月10日

 

ソロプチミストの丘に咲く八重桜  2022年4月10日

 

    やまつつじ              2022年4月21日

 

萩の塚正面に小さなつつじが1本だけ境界の杭に沿ってある。この杭は斜面に沿って3段になっており人為的に木が植えられているので、おそらくこのツツジは人が植えた物と考えられる。種類はわからないがヤマツツジということにする

 



萩の塚正面は踊り場ように平坦。斜面との境界杭が見える。

この杭は花壇のように3段になっていて、植樹がされているようだが、市の管理者が植えたものか、萩の塚衆が植えたのかもしくは両者の植えたもの混ざってあるのかはわからない。

 

 2022年1月16日

 

 

ソロプチミストの丘に咲く平戸つつじ  2022年4月10日

 

名前がよく分からない花 2022年6月

 

       名前がよく分からない花 2022年6月

 

 

 

 

 


    クチナシ   2022年7月7日

 

萩の塚から見て左側にの杭のある花壇部分にあり、おそらくは人の手によって植えられたものと思われる。

       

 

 

 

 

 

萩の塚南坂を降りた出会いにある椿の森  2022年3月25日

 

 

この椿の森は公的な管理者によって植えられたものである。

かつてここは塚衆が真っ暗闇の中で体操したり、詩吟を唸ったりする場所でもあった。

 

 

この記事については継続して加筆するつもりである。  以上

 

 

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萩の塚についての説明文を作りました

 

じつは萩の塚の説明文については2011年5月14日に一度作ったことがある。

しかし1週間も経たないうちに何者かによって黒い心棒1本だけ残して破棄された過去がある。この事で萩の塚の経緯に対して快く思っていない人がいることをハッキリと知らされた。

以下の写真が11年前に作った説明文だ

 

この時はかなり手間をかけて作成したのだが、あっという間に捨てられ、それ以来作っても無駄だと思って作らなかった。

しかし、つい先日萩の塚の下の方の斜面に瓶や缶のゴミを発見し拾った時に、偶然にも土の中から半分顔を出したボロボロの説明文を発見したのだ。

一昨年に父が亡くなり、萩の塚の集まりがまったく途絶えてしまった今。

ボロボロで土に汚れた説明文をあらためて読んで、父があれだけ熱心に通った萩の塚の集まりが、全く無かった事のように消え去ってしまうことに対し、何か抵抗を感じた。

 

そこでもう一度説明文を作ってみたのだ。

今回の文章は何方にもあまり反対のないよう簡潔なものに変えた。また捨てられても良いように押しピンで留めただけのものにした。

 

さて、この説明文がいつまで在るのだろうか。見守りたい。

 

 

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おのころ坂 改修工事に想う

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令和  3年(2021年)12月12日。

萩の塚から三勲神社方面へ帰る途中、おのころ坂を降りきる手前で景色に似合わない物が目に入っってきた。それは赤いコーンに囲われた木に似せたプラスチック樹脂の棒が積み上げられた景色だ。すぐにおのころ坂の階段の改修工事をするのだとわかった。

前々回の記事で萩の塚に至る階段の棒が朽ちて雨水が道の脇を削って通りにくいという話題を書いた所だったので、この改修のタイミングに驚いた。

 

さて、あのプラスチック樹脂の棒をどうやって運んだのかと思ったら降りる道々に車両の轍跡が見られた。山の趣ある静かな径が重機による凹凸拡張によってまるで工事中の道路になっていた。まさか萩の塚に至る径に車両が入るなど想像もしていなかった。

登山口にまで降りた所で径を荒らした犯人を見つけた。なんとも小さな工事車両があるものだが、よくあんな道が登れるものだと感心もした。とりあえず街からプラスチック樹脂の杭をこの登山口に集積しここからおのころ坂の下まで運ぶのだろう。

 

 

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                               2021年12月12日

 

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                        2021年12月26日


前々回に階段が朽ちて通りにくい記事を書いたがこれはなにも階段を改修してもらいたいために書いたのではない。階段があるとよけいに登り降りがしにくいと言う声はよく耳にする。私もその一人だ。

また山中の階段は管理できず放置すると前々回の記事のようになってしまう。実際にこの径を歩いている者として、今ある道は自然を体験するに丁度よい。先だって小学校1年と3年の子供らを連れてきたが、子供達は階段を通りたがらない。あっちこっちとうろつきながら自然の坂道を楽しんでいるのだ。

 

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                         2022年1月10日

階段の必要性は市民のための公園と言う発想から生まれてくるのであろう。誰もが気軽に入れる公園造り。確かに近年は派手な半パン、ランニングにサングラスといった姿で操山を駆けている人達が増えた。旭川河川敷のランニングコースと同じ感覚なのだろう。

 

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                         2022年1月16日

 

 

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                        2022年1月27日


以前の記事に萩の塚ですごい数のムカデに驚いた話を書いたが、操山には触ればかぶれる漆の木もあれば毒ヘビのマムシもいるしダニも沢山いる。山に入るなら葉や枝で素肌を傷つけないような服装は当たり前なのだが、半パンランニングの人達は山に入ると言うより公園のランニングコースと同じ感覚に違いない。

 

祖父の代から長年操山の趣有る径を歩いてきた者にとっては、市街地の公園道路の改修工事を行う感覚で出来る立派な山道よりも、多少上り下りの苦労はあっても、それだからこそ味わえる山の良さを知ってもらいたい。

 

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                         改修以前のおのころ坂

 

おのころ坂改修工事は2月24日に行くと立ち入り禁止の柵も無くなりどうやら完成したようだった。道幅は集団マラソンが出来るぐらい倍以上に広げられたが、階段はプラスチック樹脂のある部分と土嚢むき出しのままの部分とすごく中途半端なものになっていた。

 

操山は昔からそして今も貴重な里山である。山に入ればコゲラが木をつつく音が聞こえるし、秋には栗の実が沢山落ちている。数十年前まで松茸も沢山とれていたのだ。

 

たしかにその時代時代に合わせた山の姿があってもよいかもしれない。だが人それぞれに変わって欲しくない操山との思い出があり、操山にはそれを思い出せるようにその姿を留めて置いて欲しいという思いもあるはずだ。

私にとって操山は祖父が登り、父が雨の日も雪の日も登った山である。そして萩の塚の面々を思い浮かべるだけで懐かしい懐かしい場所である。出来ればいつまでも変わらずにあって欲しい。そう願っている。

 

 

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奥市グラウンド・護国神社側から萩の塚に至るコースをご紹介

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今回は奥市の野球グラウンド横からの登山口と護国神社脇から萩の塚へ登るコースを紹介する。

 

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                    写真はバックネット側から見たグラウンド

 

登山口は野球グラウンドバックネット側の道を挟んだ道路脇にある。操山についての説明板のすぐ横に早速三勲神社方面と旗振り台・萩の塚方面への分岐があるので萩の塚方面へと道をとる。

 

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小さなアップダウンはあるが歩きやすい平坦な道が10分ほど続く。砂防堤手前に分岐があるがとにかく平坦な道を選び進んで行く。

 

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5分ほど歩くと護国神社脇から登ってくる道と合流する。

 

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護国神社脇からの登りはこの道に出る為のショートカットコースと言える。

 

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護国神社脇からの入り口

 

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左側護国神社からの合流

 

この合流地点から平坦な道を3分ほど歩くと右下にポツンと一つだけ墓が見えてくる。伊木忠榮室荒尾氏と書かれた300年ほど前の墓である。

 

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この辺り一体は楠の木が密集している珍しい場所となっている。案内板にはクスの森と書かれている。私の中での森と言うイメージはもっと広大なものなのだが、調べると人口林を林、自然林を森とあり、また当てはまらないものもあると記述され、ここでは案内板に従いクスの森としておく。

 

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                    振り返って見た写真

 

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                             振り返って見た写真

 

5分程歩きクスの森を抜けたあたりから登りが始まる。まずは萩の塚と旗振り台、沢田と明禅寺との五叉路まで行くことになる。案内板ではこの五叉路のことを「ふれあいの辻」と呼称している。ふれあいの辻までは登り始めから5分ほどで到着する。(時間は50代の男性を基準)

 

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                        クスの森を抜けてからの登り

 

 ふれあいの辻に行くまでの途中に炭焼き窯跡へ行く分岐がある。萩の塚へは分岐を曲がらずまっすぐ行くのだが、寄り道して炭窯跡を紹介する。

炭窯跡へは分岐から7分ほど登ることになるがとても滑りやすい急坂である。途中簡易ロープが有志によって付けられているのでそれを頼りに登る

 

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                   登り初めてすぐ左手に炭窯への分岐がある

 

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写真は天気の悪い早朝だったのでわかりずらいが、沢田近辺の人から炭焼き窯について「昭和に入って以後のものではないか」と、聞いたことがある。しかしこれも定かな話ではない。昭和に入ってからだとすると、萩の塚衆が登り始めたのが昭和14年だから時期が重なっている可能性もある。私が尋ねなかったからだろうが炭焼きについての話題は聞いたことがないので、憶測だが昭和14年以前にはすでに炭焼き窯は閉じられていたのではないだろうか。

 

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話は脱線したが元の道に引き返し、5分程で鞍部に到達する。この辺りは椿がたくさん有るので椿の森と案内板には書かれている。

ここは正確には五叉路以上に道が複雑になっていて、今来た道の延長線上に下ると沢田方面に出る。また沢田に向かって左へ行くのが萩の塚への道。萩の塚方面へ行くとすぐ右斜めに行く道がありこれが明禅寺城へ向かう道。五叉路を右に行くと旗振り台方面へ。また直登すると案内板にある護国神社裏山古墳があり、直登せず左へ巻くと漕源寺方面への迂回路となる。

 

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萩の塚衆は必ずここ(ふれあいの辻)で休憩し萩の塚までの急坂に備える。以前三勲神社から萩の塚へのコースを書いたが、三勲神社側の休憩カ所は三勲神社跡手前の広場である。この場所は大きく星空が広り、眼下に街の灯りが見えて暗い中であっても気持ちが良い。一方護国神社方面から登る時のこの休憩カ所は木々に囲まれた中にある。萩の塚衆がここに着く時間は真っ暗闇で、数センチ先も見えない中でベンチに荷物を置くと、数分間体操をしたり大声で詩吟を唸ったりしていた。

 

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さてここからが萩の塚への最後の急坂、萩の塚南坂である。前回書いたように国か市の管理者がつけた階段は老朽化してよけい登りづらくなっている。ここでは萩の塚衆らによって造られた迂回路の方が歩きやすい。迂回路は上に向かって左側でそこを登って行く。息を切らして尾根にたどり着くと正面に案内板がありしっかりとした道がある。案内板に向かって右側に萩の塚古墳が見える。また尾根の手前に萩の塚衆によってつくられた迂回路があり尾根まで行かなくても直接萩の塚へ行くことも出来る。

 

 

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萩の塚古墳が見える

下の写真は坂を登りきる手前から直接萩の塚へ行ける迂回路である。私が20歳代のころはとても径とも呼べるものではなくスジだったが、萩の塚衆によって踏み固められて道となっている。

 

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さて、やっと萩の塚へ到着した。

 

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まずは抹茶を一服。

皆さんにお供えします。

 

 

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11月末ともなると日の出が随分遅くなって来ました

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この時期登山口からの一歩目は5時45分前後となる。嘗て父と登っていた頃は夏冬問わず4時20分前後から登り始めたので当時より随分遅いが、それでも登りはじめは当時を思い出すほどの暗さになってきた。最近は護国神社脇から三勲神社跡へとぐるっと一周するコースで歩いている。

数え切れないほど歩いた道なので頭も体も道を憶えているが、それでも少しずつ道の変更はされている。変更と言ってもマイナーチェンジと言った所だが、その主な原因は国か市の管理者が急坂に直径10センチ程度の丸木を横に置いた階段を作っているが、

予算等あるのだろう管理が出来ていない為丸木のほとんどが擦れたり腐ったり、中には外れて無くなっている所もある。足を置く位置もえぐれたり段差幅が大きくなっていて、せっかくの階段が利用しにくいカ所が多く見られようになっている。

そこで入山者は階段よりも歩きやすい階段脇を通るようになる。そのことで今度は階段脇が掘れてしまい雨水の格好の水路となる。濁流は土を流して階段脇をさらに深く掘り下げるため階段脇も歩きにくくなってしまう。

 

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そのため階段を迂回するような道が自然発生してルートのちょっとした変更になるというわけだ。

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萩の塚への最後の登りである萩の塚南坂でも迂回路が道として不明瞭な場所があり、真っ暗な中では木や石を確認して登ることになる。

 

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私が小学生の頃。父は真っ暗な中にカンテラを下げてラジオの短波放送で株式情報を聞きながら登っていた。

今の私はウオークマンでイヤホンを右耳だけに入れて音楽を聴きながら、小さな懐中電灯を頼りに登っている。そんな格好で護国神社脇から登って行くと、萩の塚への行程6分の1ぐらいの道のすぐ下に、立派な墓が一基だけポツンと建っている。

 

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前々から気になっていたのだが、最近奇特な人が簡単な墓の説明文を道脇の木にぶら下げた。私同様にその方も気になっていたのだろう。

父はその墓については幕末池田家の家老で茶人の伊木三猿斎の妾だなどと言っていたが、その説明文では女性ではあるが時代がもっと遡り元禄忠臣蔵時代の頃だと書いてある。

 

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以前も降りて写真を撮ったことがあるが、今日改めて降りて見ると、この墓の埋葬者は伊木忠榮室荒尾氏之墓と書いてある。

建てられた年は貞亨元年甲子九月十七日<西暦1688年9月17日>である。

木に掛けた説明文の通り貞亨の年号は元禄のすぐ前にあたり、徳川五代将軍綱吉の時だ。

 

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どなたかが枝をお供えしてあったので、私は小さな熊手を丁度持参していたので墓掃除をすることができた。

 

墓を囲む外周は結構な広さがあるが、主人である伊木忠榮氏の墓は見当たらない。有れば奥さんの墓と同じかさらに大きい石が使われている筈だが、この一角にあってまだ埋もれているのだろうか。

仮に主人忠榮氏の墓がこことは全く別の場所にあるとすれば、室と言う奥さんを現す言葉を、父が言うように当時は正妻以外の第二、第三婦人に対して使っていたとするなら、ひょっとして伊木家の正当な墓地とは別のこの場所に何らかの理由で葬られたのかも知れない。

 

<*このブログを読んでいただいている知人で数少ない読者の方から、この墓について書かれているTwitterがあることを教えていただいた。Twitter主の許可をいただいているわけでは無いので、あくまで参考意見として、墓主は伊木家第四代当主伊木忠親の正室鳥取池田家家老荒尾成元の娘於利津の墓ではないかと述べられている。

ウィキペディアによると於利津さんは墓建立の4年前1684年に亡くなっている。

 

また別の方のブログに、瀬戸内市虫明の千力山(円通山)に伊木忠親室の戒名が書かれた没年は同じで日付が一月程異なる墓があるようだ。出来れば一度見に行きたいものだ。同人物とするなら墓が二基造られたことになる。また伊木忠榮と忠親は果たして同人物なのだろうか。*>

 

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さらに疑問なのはこの墓が何故ここに一基だけあるのかと言うことだ。この並びの山裾に墓地は随分あるが、この墓だけがそれこそ山中にポツンと離れて建っている。

昔は護国神社の位置が今より西の野球グラウンドあたりにあったと聞いたことがある。仮に現在ある護国神社から奥が墓地であって、護国神社を奥に引いた際に墓を移動させたのだとしたら一基だけ移動させなかったと言うのもおかしな話だ。それともこの墓の位置がかなり山奥に入った場所だったので放って置かれたのだろうか。

 

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この墓については疑問が尽きないがこれらは後日の課題にしたい。

 

※ 令和4年2月27日 この墓の周囲の木が倒されたことで、この墓の正面を向いて左手10メートルほど横に建物が建っていた土壁が残っていることに気がついた。

もちろん墓と同時代のものなのか、またこの建物が何なのかわからないが、この場所に墓だけが一基あったわけではなく他の建物も建っていたことを教えられた。

その後墓の周囲の広範囲に墓石や土壁らしき跡が他にもあることを知り、以前にはこの墓以外にたくさんの墓があったことを知った。これらは移動させたのか無縁墓として墓終いにしたのだろうか。やはりこの墓一つだけが残されたわけは依然不明である。※

 

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萩の塚へ登る時は真っ暗な時間帯にこの墓の横を通ることが多い。そして通るときには

「おはようございます!」と必ず声をかけて通っている。

この墓は私の祖父や父やそして萩の塚の面々をずっと見守ってきてくれた墓だからである。

萩の塚へ至る道は郷愁を誘う、心の故郷へと続く道のようだ。

 

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萩の塚を照らす朝の光。

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春から秋にかけて、塚衆は塚の前で抹茶を飲むことも多かった。しかし近年は塚の入り口近くまで笹が進出する状態で、見かねて数ヶ月前に大分刈り込んだが、昨日さらに刈り込んだので元有った境界線の杭が出てきた。

 

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笹は根が強く蔓延る為強力な除草剤を蒔きたいところだが、周囲の木にまで影響を及ぼすのでそれも出来ず、伸びては刈るというイタチごっこをせざるをえない。その頑張った結果が、もともと古い草刈りバサミだが柄がボキッと折れるという悲惨なことになってしまった。

 

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それでもかつての広さまでざっとであるが広げたので、あとは時間をかけてリュックに入る30センチほどの小さな鍬でもって表面の土をならしていくつもりだ。さすがに大きな鍬は桃畑の中を上を向いて歩くのに似て、街中山中共に持って歩きにくい。第一そんな大きな鍬自体持っていない。

あらかた鍬で地ならしが出来て格好がつくぐらいになったらまた紹介できるだろう。

 

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塚の前をあらためて眺めて見ると

「あーそうだったなー」と以前の感覚と風景が蘇ってきた。萩の塚は尾根に造られていて、谷を挟んで向かいに見える旗振り台の尾根から太陽が昇ってくる。それを塚衆らと眺めたものだ。ただし今は前面の木が大きく育ってしまい谷や向かいの山の景色を遮ってしまっている。

 

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萩の塚をはじめ操山には古墳が130基ほどあるらしい。尾根の頂には大抵古墳があると思って良い。現代の技術でも自動車やブルの入る道がなければ、例え操山のような低山でも巨岩を尾根スジに運ぶのは困難だろう。当時そこまでして尾根に古墳を造ったのには何か意味があるはずだ。

その意味の一つが眺めの良さにあると思える。

埋葬者が造営当時に求めた景色は、周辺の木を刈り込むことで谷を望み、向かいの山の緑なす稜線と広がる平野に移りゆく空であったろう。しかしこの景色は人が手を入れないかぎり長続きせず、すぐに木々に覆われて見えなくなってしまう。

 

 

冬場凍てついた真っ暗な中を、懐中電灯の灯りだけを頼りに萩の塚にたどり着くと、囲炉裏の火と抹茶の一杯が迎えてくれてやっと体が温まってくる。やがて塚衆の背景が白々と変わり朝陽が差し込んで来る。萩の塚に差し込む朝日は格別である。

 

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歳を重ねて残り少なくなってきた人生を、肉体に鞭打ってやっとのことで萩の塚にまで登って来る。そこでの会話に老人達の笑顔が塚からこぼれる。およそ80年の人生で,

様々な事を経験して行き着いた桃源郷。これこそ萩の塚の風景だ。

 

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風が涼しく透明に感じる季節となりました

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だいたい週2回は萩の塚に行く。そんな間隔であっても10年続けようと思えば、仕事や家庭や健康など様々な要素が揃わないと続けることは出来ない。父は94歳まで続けた。

家本為一先生は

「今日は病気じゃ、昨日は薬じゃと、半休半労の能率なき生活をするよりか、早朝枕を蹴って起き、橋下乞食の鶏の鳴く頃、東山に登り萩の塚に至り、一杯の茶を飲み、人の目を覚す時には悠々下山して、各々その職業に出勤するのは、別に恥ずべき事ではない。」

 

とおっしゃっている通り、萩の塚衆は夏冬問わず毎朝5時には萩の塚に着いて茶を飲むのを日課としていた。私はそんなに早く起きないで、萩の塚衆が塚に到着した時刻の5時に起きて準備をし始める。

 

阪神淡路大震災が1995年平成7年1月17日火曜日の午前5時46分に発生した。その時刻萩の塚衆は塚の中で茶を飲んでいて地震に遭遇した。私は地震発生からさほど経たない時期にボランティアで神戸に入り、倒壊家屋などの状況を見たが、岡山市は震度4であった。萩の塚古墳は大きな岩を積み上げた構造だから落ちてきたら全員圧死である。しかし萩の塚古墳はビクともせず、地震のあった日も塚衆はいつも通りに塚の中で抹茶を飲み下山したらしい。

 

萩の塚古墳は造られてから1500年が経つ。その間にはこの地震を含めて様々な物語を経験したに違いない。

すぐに頭に浮かぶのが戦国時代。備中の覇者三村元親と備前からの新興勢力宇喜多直家とが、まさにこの場所で戦った明禅寺城の戦いである。

宇喜多はこの明禅寺城の戦いに勝利して備前備中の覇者となり、三村はこの戦いに敗れて滅亡へと進むことになった。

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萩の塚から明禅寺城は峰続きのすぐ直下といった位置関係である。萩の塚からは城の様子が手に取るように見えるので明禅寺城を落とすには欠かせない場所である。おそらく城の一部として守備を固めていたであろうし、攻め手も人数を割いて攻めたであろう。当時は甲冑を着た武者がガシャガシャと音をたてて走りながら萩の塚を行き交い、場合によっては塚の内外でも壮絶な斬り合いが行われたかもしれない。

 

そんなことを思いながら私は塚の前で抹茶を飲んでいる。

 

先日抹茶を終えていざ掃除をしようとしたら所定の位置にある筈の箒が見当たらない。

その場所以外にホウキは置かないので持ち去られたことは確実である。

ただ何の為に持ち去ったのかが判らない。清掃ボランティアのような登山者が、あまりに汚い箒なのでゴミとして持ち去った。、、、か。

公共的に管理する立場の方がやってきて、ホウキを迷惑行為にあたる道具として持ち去った。、、、か。

不明である。

そこで早速ホームセンターに行って新しいホウキを購入した。ホウキには「萩の塚」「そうじ」「持って行かないで」と書いた。

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さてこの文字がどれだけ効力があるものなのか、今後を観察してみたい。

 

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