萩の塚通信

岡山市の操山にある古墳の一つ「萩の塚」に関した様々を綴っております

11月末ともなると日の出が随分遅くなって来ました

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この時期登山口からの一歩目は5時45分前後となる。嘗て父と登っていた頃は夏冬問わず4時20分前後から登り始めたので当時より随分遅いが、それでも登りはじめは当時を思い出すほどの暗さになってきた。最近は護国神社脇から三勲神社跡へとぐるっと一周するコースで歩いている。

数え切れないほど歩いた道なので頭も体も道を憶えているが、それでも少しずつ道の変更はされている。変更と言ってもマイナーチェンジと言った所だが、その主な原因は国か市の管理者が急坂に直径10センチ程度の丸木を横に置いた階段を作っているが、

予算等あるのだろう管理が出来ていない為丸木のほとんどが擦れたり腐ったり、中には外れて無くなっている所もある。足を置く位置もえぐれたり段差幅が大きくなっていて、せっかくの階段が利用しにくいカ所が多く見られようになっている。

そこで入山者は階段よりも歩きやすい階段脇を通るようになる。そのことで今度は階段脇が掘れてしまい雨水の格好の水路となる。濁流は土を流して階段脇をさらに深く掘り下げるため階段脇も歩きにくくなってしまう。

 

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そのため階段を迂回するような道が自然発生してルートのちょっとした変更になるというわけだ。

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萩の塚への最後の登りである萩の塚南坂でも迂回路が道として不明瞭な場所があり、真っ暗な中では木や石を確認して登ることになる。

 

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私が小学生の頃。父は真っ暗な中にカンテラを下げてラジオの短波放送で株式情報を聞きながら登っていた。

今の私はウオークマンでイヤホンを右耳だけに入れて音楽を聴きながら、小さな懐中電灯を頼りに登っている。そんな格好で護国神社脇から登って行くと、萩の塚への行程6分の1ぐらいの道のすぐ下に、立派な墓が一基だけポツンと建っている。

 

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前々から気になっていたのだが、最近奇特な人が簡単な墓の説明文を道脇の木にぶら下げた。私同様にその方も気になっていたのだろう。

父はその墓については幕末池田家の家老で茶人の伊木三猿斎の妾だなどと言っていたが、その説明文では女性ではあるが時代がもっと遡り元禄忠臣蔵時代の頃だと書いてある。

 

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以前も降りて写真を撮ったことがあるが、今日改めて降りて見ると、この墓の埋葬者は伊木忠榮室荒尾氏之墓と書いてある。

建てられた年は貞亨元年甲子九月十七日<西暦1688年9月17日>である。

木に掛けた説明文の通り貞亨の年号は元禄のすぐ前にあたり、徳川五代将軍綱吉の時だ。

 

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どなたかが枝をお供えしてあったので、私は小さな熊手を丁度持参していたので墓掃除をすることができた。

 

墓を囲む外周は結構な広さがあるが、主人である伊木忠榮氏の墓は見当たらない。有れば奥さんの墓と同じかさらに大きい石が使われている筈だが、この一角にあってまだ埋もれているのだろうか。

仮に主人忠榮氏の墓がこことは全く別の場所にあるとすれば、室と言う奥さんを現す言葉を、父が言うように当時は正妻以外の第二、第三婦人に対して使っていたとするなら、ひょっとして伊木家の正当な墓地とは別のこの場所に何らかの理由で葬られたのかも知れない。

 

<*このブログを読んでいただいている知人で数少ない読者の方から、この墓について書かれているTwitterがあることを教えていただいた。Twitter主の許可をいただいているわけでは無いので、あくまで参考意見として、墓主は伊木家第四代当主伊木忠親の正室鳥取池田家家老荒尾成元の娘於利津の墓ではないかと述べられている。

ウィキペディアによると於利津さんは墓建立の4年前1684年に亡くなっている。

 

また別の方のブログに、瀬戸内市虫明の千力山(円通山)に伊木忠親室の戒名が書かれた没年は同じで日付が一月程異なる墓があるようだ。出来れば一度見に行きたいものだ。同人物とするなら墓が二基造られたことになる。また伊木忠榮と忠親は果たして同人物なのだろうか。*>

 

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さらに疑問なのはこの墓が何故ここに一基だけあるのかと言うことだ。この並びの山裾に墓地は随分あるが、この墓だけがそれこそ山中にポツンと離れて建っている。

昔は護国神社の位置が今より西の野球グラウンドあたりにあったと聞いたことがある。仮に現在ある護国神社から奥が墓地であって、護国神社を奥に引いた際に墓を移動させたのだとしたら一基だけ移動させなかったと言うのもおかしな話だ。それともこの墓の位置がかなり山奥に入った場所だったので放って置かれたのだろうか。

 

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この墓については疑問が尽きないがこれらは後日の課題にしたい。

 

※ 令和4年2月27日 この墓の周囲の木が倒されたことで、この墓の正面を向いて左手10メートルほど横に建物が建っていた土壁が残っていることに気がついた。

もちろん墓と同時代のものなのか、またこの建物が何なのかわからないが、この場所に墓だけが一基あったわけではなく他の建物も建っていたことを教えられた。

その後墓の周囲の広範囲に墓石や土壁らしき跡が他にもあることを知り、以前にはこの墓以外にたくさんの墓があったことを知った。これらは移動させたのか無縁墓として墓終いにしたのだろうか。やはりこの墓一つだけが残されたわけは依然不明である。※

 

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萩の塚へ登る時は真っ暗な時間帯にこの墓の横を通ることが多い。そして通るときには

「おはようございます!」と必ず声をかけて通っている。

この墓は私の祖父や父やそして萩の塚の面々をずっと見守ってきてくれた墓だからである。

萩の塚へ至る道は郷愁を誘う、心の故郷へと続く道のようだ。

 

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