今回は奥市の野球グラウンド横からの登山口と護国神社脇から萩の塚へ登るコースを紹介する。
写真はバックネット側から見たグラウンド
登山口は野球グラウンドバックネット側の道を挟んだ道路脇にある。操山についての説明板のすぐ横に早速三勲神社方面と旗振り台・萩の塚方面への分岐があるので萩の塚方面へと道をとる。
小さなアップダウンはあるが歩きやすい平坦な道が10分ほど続く。砂防堤手前に分岐があるがとにかく平坦な道を選び進んで行く。
5分ほど歩くと護国神社脇から登ってくる道と合流する。
護国神社脇からの登りはこの道に出る為のショートカットコースと言える。
護国神社脇からの入り口
左側護国神社からの合流
この合流地点から平坦な道を3分ほど歩くと右下にポツンと一つだけ墓が見えてくる。伊木忠榮室荒尾氏と書かれた300年ほど前の墓である。
この辺り一体は楠の木が密集している珍しい場所となっている。案内板にはクスの森と書かれている。私の中での森と言うイメージはもっと広大なものなのだが、調べると人口林を林、自然林を森とあり、また当てはまらないものもあると記述され、ここでは案内板に従いクスの森としておく。
振り返って見た写真
振り返って見た写真
5分程歩きクスの森を抜けたあたりから登りが始まる。まずは萩の塚と旗振り台、沢田と明禅寺との五叉路まで行くことになる。案内板ではこの五叉路のことを「ふれあいの辻」と呼称している。ふれあいの辻までは登り始めから5分ほどで到着する。(時間は50代の男性を基準)
クスの森を抜けてからの登り
ふれあいの辻に行くまでの途中に炭焼き窯跡へ行く分岐がある。萩の塚へは分岐を曲がらずまっすぐ行くのだが、寄り道して炭窯跡を紹介する。
炭窯跡へは分岐から7分ほど登ることになるがとても滑りやすい急坂である。途中簡易ロープが有志によって付けられているのでそれを頼りに登る
登り初めてすぐ左手に炭窯への分岐がある
写真は天気の悪い早朝だったのでわかりずらいが、沢田近辺の人から炭焼き窯について「昭和に入って以後のものではないか」と、聞いたことがある。しかしこれも定かな話ではない。昭和に入ってからだとすると、萩の塚衆が登り始めたのが昭和14年だから時期が重なっている可能性もある。私が尋ねなかったからだろうが炭焼きについての話題は聞いたことがないので、憶測だが昭和14年以前にはすでに炭焼き窯は閉じられていたのではないだろうか。
話は脱線したが元の道に引き返し、5分程で鞍部に到達する。この辺りは椿がたくさん有るので椿の森と案内板には書かれている。
ここは正確には五叉路以上に道が複雑になっていて、今来た道の延長線上に下ると沢田方面に出る。また沢田に向かって左へ行くのが萩の塚への道。萩の塚方面へ行くとすぐ右斜めに行く道がありこれが明禅寺城へ向かう道。五叉路を右に行くと旗振り台方面へ。また直登すると案内板にある護国神社裏山古墳があり、直登せず左へ巻くと漕源寺方面への迂回路となる。
萩の塚衆は必ずここ(ふれあいの辻)で休憩し萩の塚までの急坂に備える。以前三勲神社から萩の塚へのコースを書いたが、三勲神社側の休憩カ所は三勲神社跡手前の広場である。この場所は大きく星空が広り、眼下に街の灯りが見えて暗い中であっても気持ちが良い。一方護国神社方面から登る時のこの休憩カ所は木々に囲まれた中にある。萩の塚衆がここに着く時間は真っ暗闇で、数センチ先も見えない中でベンチに荷物を置くと、数分間体操をしたり大声で詩吟を唸ったりしていた。
さてここからが萩の塚への最後の急坂、萩の塚南坂である。前回書いたように国か市の管理者がつけた階段は老朽化してよけい登りづらくなっている。ここでは萩の塚衆らによって造られた迂回路の方が歩きやすい。迂回路は上に向かって左側でそこを登って行く。息を切らして尾根にたどり着くと正面に案内板がありしっかりとした道がある。案内板に向かって右側に萩の塚古墳が見える。また尾根の手前に萩の塚衆によってつくられた迂回路があり尾根まで行かなくても直接萩の塚へ行くことも出来る。
萩の塚古墳が見える
下の写真は坂を登りきる手前から直接萩の塚へ行ける迂回路である。私が20歳代のころはとても径とも呼べるものではなくスジだったが、萩の塚衆によって踏み固められて道となっている。
さて、やっと萩の塚へ到着した。
まずは抹茶を一服。
皆さんにお供えします。